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東山魁夷の想い

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「日本人は古来、自然を愛し、自然と密接なつながりを持って生活してきたが、
 西洋人は、自然は人間と対立するものと見て、それらを克服するところに進歩がある、
 と考えてきたといわれる。現在はそれが逆になったのではないだろうか」

「自然を人間生活の進歩のために利用する、ということは当然のことであるし、
 また、レクリエーションのための施設、ドライブやケーブルカー等も、ある程度は結構なことだと思う」

「しかし、私のように、戦前戦後を通じて、始終、旅行している者から見ると、もう遠くない将来に、
『日本は風景の美しい国であった』と、過去形で語らねばならない時が来ると思う。
 いや、現在、そうなっているとさえいえる」

「富士山の八合目までケーブルを架設する計画も、現在五合目までバス道路ができているのだから、
 これ以上、必要はないと思う」

「自然美だけでなく、民族の生活のにおいを残している古い町も、ほとんどが何とか銀座と名のつく、
 安っぽい町並みに変わってしまった」

「風景美はだれのものか。心ない行楽客のものでなく、観光事業会社のものでなく、
 われわれ国民全体の所有である」

「特に重要で美しい場所は、もっと強力に保護される方法はないものだろうか。
 日本は美しい風景の国であると、われわれの子孫も語ることができるように」

「清澄な自然と素朴な人間性に触れての感動が主である」

「現代は文明の急速度の進展が、自然と人間、人間と人間の間のバランスを崩し、
 地上の全存在の生存の意義と尊さを見失う危険性が、高まって来たことを感じるからである。
 平衡感覚を取り戻すことが必要であるのは言う迄もない」

「清澄な自然と、素朴な人間性を大切にすることは、人間のデモーニッシュ(悪魔的)な暴走を、
 制御する力の一つではないだろうか。人はもっと謙虚に自然を、風景を見つめるべきである」

「普通の風景も心が純粋になれば生命にあふれる」

「たとえば、庭の一本の木、一枚の葉でも心を籠めて眺めれば、根源的な生の意義を、
 感じ取る場合があると思われる」

「自然と人間が対立するものとしない感じ方、考え方が、幼い頃から私の中に、
 芽生えていたことは事実である」

「私は人間的な感動が基底になくて、風景を美しいと見ることは在り得ないと信じている。
 風景は、いわば人間の心の祈りである」

「私は清澄な風景を描きたいと思っている。汚染され、荒らされた風景が、
 人間の心の救いであり得るはずがない。風景は心の鏡である」

「日本の山や海の、何という荒れようであろうか。 また、競って核爆発の灰を大気の中に
 振り撒(ま)く国々の、何という無謀な所業(しょぎょう)であろうか」

「母なる大地を、私達はもっと清浄に保たねばならない。なぜなら、それは生命の源泉だからである」

「自然と同和して生きる素朴な心が必要である。人工の楽園に生命の輝きは宿らない」

「私達の風景という問題には、いまこそ私達人間の生存がかかっていることを、
 否応なしに深く考えざるを得ない現在である」


東山魁夷の想い!「自然は心の鏡」そして、東山魁夷の最後の言葉!




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by fujiyanh | 2014-03-31 00:51 | ☆東山魁夷作品