Lounge ”四季”を散歩して・・・                気になること(モノ)を綴るblog

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ゲンロン0

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まじめな公⇔ふまじめな私
政治⇔文学
社会⇔実存
人間(誇り高き精神)⇔動物(欲求を満たすだけ)
全体主義⇔個人主義
ナショナリズム⇔グローバリズム
リベラリズム⇔リバタリアニズム
国民国家⇔帝国
……etc
人間が豊かに生きていくためには、特定の共同体にのみ属する「村人(当事者)」でもなく、どの共同体にも属さない「旅人(部外者)」でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつも、ときおり別の共同体も訪れる「観光客」的な在り方が大切だという主張です。

どんなに悲惨で残酷で悲劇的な場所であっても、この世界中をあたかも観光地のようにして楽しめて、観光先の偶然の出会いやノイズへと書き換えていく生き方が大切だと。

観光客は住民に責任を負わない。同じように二次創作者も原作に責任を負わない。
観光客は、観光地に来て、住民の現実や生活の苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけ消費して帰っていく。
二次創作者もまた、原作者の意図や苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。
両者に共通するのは無責任さである。この無責任であるからこそ、新しいタイプの自由や倫理の可能性が開かれるのかも。
当事者が重要なことは否定しません。それは原作が重要なことと同じ。
現実には過去は存在しないから、論争も終わることがない。あらゆる過去についての物証は、二次的な手がかりでしかないので過去についてはそういう意味で決定的に当事者ではない。
だからフェイクニュースも陰謀論も消えない。厳密には「当事者だった観光客」がいるだけなのです。
なにかの当事者であることをつねに偶然だと思えということだと。

観光客は大衆である。労働者であり消費者である。観光客は私的な存在であり、公共的な役割を担わない。
観光客は匿名であり、訪問先の住民と議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。
観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛びまわる。友もつくらなければ敵もつくらない。ほぼすべての性格が集っている。
観光客はまさに、二〇世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば、必然的に、二〇世紀の思想の限界は乗り越えられる。

二一世紀の世界は、人間が人間として生きるナショナリズムの層と、人間が動物としてしか生きることのできないグローバリズムの層、そのふたつの層がたがいに独立したまま重なりあった世界だと考えることができる。
市民が市民社会にとどまったまま、個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と普遍につながるもうひとつの回路はないか、その可能性を探る企てである。

内容なき連帯は、一時の盛り上がりを見せても、継続的に政治を変えてゆくはたらきを持たないことはアラブの春の後の歴史を見ても明らかである。

観光客の視点こそが、当事者たちの不毛な闘いをあるていど抑止するのかも。

たまたま目のまえに苦しんでいる人間がいる。ぼくたちはどうしようもなくそのひとに声をかける。同情する。それこそが連帯の基礎であり、「われわれ」の基礎であるのだと。


東 浩紀氏の著書
弱いつながり



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# by fujiyanh | 2017-05-01 23:23 | 時事メモ

「気ままな徒然記」


by fujimetal